直仁の「善き人のための」研究室

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芸術の感じ方

平野啓一郎さんの「葬送」で語られるショパンのパリでの最後の演奏会の様子。
実際に聞いてみたいと思わせる文であった。演奏の様子の描写に感嘆する。

演奏の休憩中に彼の芸術論が語られているので紹介したい。それは、ショパンが舟歌を弾いた時に、自分で指定したフォルテを無視してピアニシモで弾いた、そこに感動し、それに気がついた婦人が分析的に嬉々として話すのに対し、ドラクロワの口を借りて次のように述べている。

ドラクロワは、そうした部分をことさらに取り上げて、したり顔で議論するピアノの練習生めいた会話に少しうんざりした。彼とてあの比類なく魅惑的なピアニシモを前半のプログラム中の特筆すべき個所だと考えていた。楽譜は見たことはなかった。けれども、以前に同じ舟歌の演奏を聴いた時の記憶と曲の展開が齎す昂揚への期待とから、その演奏がいかに意外で、しかも効果的であったかは、十分に感ぜられていた。それを話題とすること自体は構わなかった。しかし、その感動の秘話を、単にそうした分析的な発見にのみ短絡させて語ることを彼は嫌っていた。なるほど、煎じつめればそうであるには違いない。しかし、芸術が偉大であるのは、およそ技術上の知識を持たぬ人間が、最も技術的な工夫によって感動を与えられることである。問題はその仕組みの妙である。本来の楽譜とは違う弾き方をした。しかし、だから感動したということはできるだろうか?鑑賞者には、分析より先に必ず驚嘆がある筈である。寧ろ感想とは、その驚嘆を語ることではあるまいか?ショパンがフォルテの指示を無視したことが人々を驚嘆させたのではない。驚嘆の内容を閲(けみ)した後に、たまたまそうした事実が見つかったというまでである。

なるほど、学生のころオーケストラの演奏会後に感想を言い合ううちに妙に分析的になって、どこか特徴的な部分を見出しては話し相手に披露し、得意げになっていた自分を思い出して恥ずかしくなる。良かったなら良かったでよいではないか。
いつもカミさんの舞台での演奏には感嘆する。どきどきする。光を放つ演奏というか、音色が広がり純粋な音魂となって耳に届くと言うか、感動的なのである。身内に対してこんなことを書いててどうかという人もあるかもしれないが、ことピアノの演奏に関しては、自分との家庭生活とは次元の異なる世界のことなので、一人の演奏家として眺めて、それでもやはり良いと思うのである。
おそらく、その理由をドラクロワ(平野さん)が言うように閲(けみ)していくと、技術的な理由が明らかになるかもしれないが、そのようなことに今まで挑戦したことは無い。考えようがないというか、素人だからわからない。当たり前である。その技術上の工夫には並々ならぬ努力と天才とが詰め込まれていて、もし明らかになったならば感服するしかないことは容易に想定できる。やはり、そんな分析よりも純粋に感嘆したその心のありさまを味わうのが鑑賞者として真にありうべき姿だと思う。
その辺のところを平野さんは実によくわかっていると、さらに私は平野さんにも感嘆するのである。
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