直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

夢とは

人生の夢とは
何か遥かな、そして尊い、かつ、頑張れば実現できそうな目標
それを達成した暁には深い満足感と一目おかれる存在感とを得られる
そんなようなもの?

自分には夢が無い
夢ってなんだ
なぜ他者は夢を持ち夢を語り夢に向かって行動することができるのであろうか

電車の運転手になるのが子供のころからの夢だったという中年のサラリーマンが念願かなって運転手になるという映画もあれば、実話としてそうなった人が一人ならずいると新聞に書いてあった。会社役員に近い人でも、その高収入を捨てて一からやり直すようなものだ。

電車の運転手になりたい、そう子供のころ思うことができた人は幸せである。
医者になりたい、そう子供のころ思うことができた人は幸せである。
床屋さんになりたい、そう子供のころ思うことができた人は幸せである。
サッカー選手になりたい、そう子供のころ思うことができた人は幸せである。

僕は、大人になるのが怖かった。大人になるということは、仕事を持つということだ。
仕事を持つということは、毎日、朝から晩まで働いて、お金をもらうということだ。
お金をもらうということはすごいことだ。働いたことに価値がなくてはならない。
自分が、お金をもらえるような価値を有する仕事をすることが果たしてできるのだろうか、そういう怖がりようをしていた。どうしてそのように考えていたのか今でもわからない。

実際には会社に就職して言われるままに作業をこなし、だんだんと慣れてきて、少しずつ、言われなくても自分で考えてやることを覚え、そのうち、部下を任され、仲間が作ったプロトタイプを顧客に買ってもらうよう説得し、説明し、それらが半導体製造装置の中で最も重要な場所に使われて、最後はインテルやサムソンや東芝の半導体工場の数千億円という投資の対象としての装置の一部に採用され、結局、iPodや携帯電話やパソコンやゲーム機の部品の一部を製造することのお役に立つようになった。そのような仕事のあとは、新しいものを開発する立場になって、いつも、何をやっていいのかと迷いつつ、提案しては失敗し、それでも新しい挑戦を続けている。
これがお給料をいただける仕事なのか、ときどき思う。子供のころの感覚に戻ると恐ろしくて年収決定通知など見れないはずだが、もはや感覚はマヒし、少しでも多くなることを願うこのごろだ。

こんな人生は夢などというものとは最も遠い。

思い出したことがある。会社に入って2年目のこと。新入社員の一人が、部の歓迎会で「新しい商品を開発して事業を立ち上げたい」と実にまともな元気な抱負を述べた。今にして思えば、普通の新人の意気込みだ。しかし、僕はその彼を含めて行った2次会の居酒屋で、「おまえ、よくそんなことが言えるな。責任がもてるのか!」と彼に言った。真意は「君はよくそのようなことを言える気持ちの強さがあるな。僕には怖くて言えないよ」という気持ちから出た言葉だが、言い方が悪かった。彼は怒った。当たり前だ。今の僕がそんなことを言う奴を前にしたら馬鹿野郎と言いたくなる。しかし、当時の自分は臆病で融通が効かず、仕事の価値と自分の存在意義をうまくとらえることができていなかった。その極致であった。

さて、今、自分はこの先どんな夢を持って生きているのか。
会社は定年まで勤めるだろう。退職したら何をしたいのか。
夢、というと何かクリエイティブなことをしていなければならないと僕は規定してしまう。
従って、定年後に何を生み出したいと思っているのか。
それが無い。
そして、無いことが悪いことなのか、それでも構わないのかわからない。
誰が決めるのか、夢の有無の善悪を。
他人じゃない。
他人なんか関係ないはずだ。
僕が僕の生き方の基準であり、将来を考えて生きるのが良いことなのか必須なのかさえ自分で考えて善いことのはずだ。
今、考えることが楽しい。
それでいかんか?
そういうことだ。
夢は語りたい人が語ればよい。ああ、それは素敵なことですね。
でも僕はそんな気分にはなれない。なぜなら、夢を語った瞬間、その夢に決めた理由とそれ以外の数億万以上の選択を捨てた理由を自分に納得させねばならないから。そんなことは不可能だ。明日、もっと面白そうなことに出会うかもしれないではないか。それに仮に夢と語ったものが、夢に見た通りのことなどほとんどありえない。何の気なしに始めたことがものすごく面白くなってついにプロの域に達し、気がついたらカリスマになってたなんてことが無いとはいいきれない。人生の先のことは空欄にしておくのが一番善いのではないだろうか。
夢として一つ事に目標を決めてしまって生きるのは実は楽なのかもしれない。馬鹿になってそれにまい進すればいいのだから。集中すれば人はなんでもできてしまう。
自分はそれを善しとしない。それは、つまり、裏を返せば欲張りということかもしれない。
それは今日、携帯電話の店で、どの機種を選ぼうかと、そうとう長い時間端から端まで手にとってはカタログを確認し、何度も往復しながら、いろんな基準で考えて最も買うのにふさわしい機種を絞り込んでいったその工程と同じだ。人生では、自分が何をするのが一番よいのかを、そのようなやり方で選び取るのは絶対に不可能だ。だから、選ぼうとすることを初めから投げているのである。とりあえず選んで、しばらくしたら機種変更すれば善いのかもしれない。けれど、人生の機種変更はそんなに簡単にはいくまい。夢SHOPなんてものがあるわけないのだから。
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