直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

むすめのショパン

高校一年生の娘がピアノ発表会で、バッハの平均律とショパンのノクターン遺作を弾いた。
いつも発表会ではビデオを撮る役目なので、モニターに見入っていると肝心の演奏に100%集中できず、もどかしい思いをしていた。今日もまともに聴けないかもしれないと思いながらも、ビデオカメラを片手に、しかし、娘が弾く姿にできるだけ直接視線を向けるようにした。
ショパンを弾き始めると、まるでカミさんと同じように一人前の音楽家然とした顔の表情、身体のうごきで非常に美しくノクターンを奏でるではないか。カメラを持つ手に気を取られながらも、演奏に集中せざるを得ないほどにノクターンの憂愁の調べに引き込まれた。涙がこみ上げそうになった。親ばかかもしれないけれど、めったにこのような感慨を得たことはない。
普段練習をほとんど聴いていないからかもしれないが、想像以上に弾けていることに真剣に尊敬の念を覚えた。女は強い、という変な感慨もあった。
音楽に感動する場合、おもな要因は曲そのものであり、それがショパンのノクターンであったことも大きい。ちょうど、平野啓一郎さんの「葬送」の下巻の最後のところを読み進めており、ショパンが息を引き取る場面を昨日読んだところである。この名作に描かれるショパンの心中、病気からのがれることができず死にいたった彼の無念と残された美しい曲の数々への愛、そういったものが僕の頭の中に渦巻いているタイミングにちょうど合ったということもあろう。だが、感動というものはたいていの場合、このようにいくつかの要因が重なった、特別な状況で起こることではなかろうか。まさに一期一会である。
そして感動とは常に実に個人的なものである。ゆえに感動があるということは如何に幸せなことであろうか。
今日のところはとにかく、娘に礼を言いたい。
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