直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

葬送 読了

平野啓一郎さんの「葬送」をようやく読み終えた。もともと、平野さんの「本の読み方」を読んだのがきっかけで、その中で紹介されている「葬送」の一節を読み、この小説がショパンとドラクロワの話であることを知り、古書店で買い求めてしばらく本棚の肥やしになっていたものを少しずつ読み始め、この半年ほど、通勤電車の中で毎日15分ずつ読み継いできた。
登場人物の心理描写がうまいものだから、モノの考え方をこれほどまでに多様に(人によって変えて)書き分けられることに感心する。
最後の場面は特に心ひかれた。ドラクロワの真っ白な心情が想像され、まるで、卒業式を終えて少し落ち着いてこれから全方位に開かれた新しい人生への期待と少しの不安をまったりと感じている状態に似た感覚を覚え、とても気持ち良く、また、その雰囲気を名残惜しく感じながら読み終えることができた。
小説の終わりはなかなかしっくりいかないことが多い。あっけない終わりが多く、物足りなさが残ることがなぜか自分が選ぶ小説には多いが、今回はそれが無かった。クライマックスはとうに過ぎているにも拘わらず、いつまでも読んでいたかった。そして、その終わりはちょうど腑に落ちてくれたという感じ。

途中、平野さんの見解と思われる日常についての考察をドラクロワに語らせた部分があるので、紹介したい。

日常というものは、考えてみれば実に人工的なものだ。それは千変万化する自然の脅威の中に確乎たる秩序を打ち立てようとして拵え上げた人間の苦心の産物だ。その揺るぎなさこそが、一方では人を苛み、かくも衰弱させてしまうこととなっているに違いない。芸術を創作すること―或いはショパンの言い方に倣うならば、とにかくも何かに没頭すること―は、そうした秩序と一旦完全に関係を断ち切ることである。仕事場へと赴く際のあの苛立ちと不安とは、つまりはそういうことなのではあるまいか?そして出来上がった作品こそは、今度は人々をその堅固な秩序の囹圄(れいぎょ)から束の間救いだして、絶対の自由を体験させることとなる。しかしそれは、まさしく生きる者の問題だ。この日常のただなかにこの先もずっと留まり続けなければならない者達の問題に他ならない。

最後の部分は、ショパンが病のために余命いくばくもないことを踏まえて書いている。
いずれにしても、日常というものをこのように捉えることの透徹さに参った。
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